中村外二の仕事

「本物」を目指した数寄屋大工 中村外二の仕事

数寄屋と歩んで九十年

修行から独立まで

明治三十九年(一九〇六)十二月十七日、中村家の次男として富山県石動(現・小矢部市)に生まれる。十四歳で大工棟梁・水田常次郎に弟子入りし、二十二歳で独立。
昭和六年(一九三一)十二月に京都へ。清水組(現・清水建設)の下請として、数々の建築に参加。京都の数寄屋普請を通じて力を培っていった。昭和二十年の出征、復員後は、元請を主としていく。

裏千家の出入り方に

四十七歳を迎えた昭和二十八年(一九五三)、裏千家の出入り大工となる。裏千家十四代淡々斎・嘉代子夫人、のちには十五代鵬雲斎らの薫陶を受けるなど、茶家との機縁にも恵まれ、茶室普請が大きな割合を占めるようになる。また、海外での普請も請け負い始める。

松下幸之助との出会い

六十代頃からは実業家・松下幸之助との仕事が増えた。高度成長期に活発な経済活動や文化交流に支えられ茶道人口が伸び、昭和三十三年に裏千家今日庵老分職に就いた松下翁もその一翼を担った。松下翁は、昭和四十年から二十年間にわたり、国立京都国際会館茶室や神宮茶室(三重)ほか十四棟の茶室を寄贈し、外二はそれらを手がけた。

木に魅せられた棟梁

終生、木への情熱を持ち続けた外二。材木を見ては使い道を想い、設計図を見ては材木を吟味し、魅力的な木があれば集め続けた。産地や材質などの特色をつかみ、適材適所に用いることが肝心、その上で思いやりのある手入れ・使い方をして初めてよい味が出る、と語っている。それこそが「建物は作って半分、育てて半分」の心である、と。

数寄屋と歩んだ九十年の生涯

くつろぎを感じさせる清楚な障子づかい、障子は雪見障子で、下半分を開けることも可能。

外二の数寄屋

晩年に手がけた実験住宅 自邸

昭和五十九年(一九八四)、晩年の外二が建てた自邸。ここはいわば外二の「実験住宅」。それまで設計・施工はしても、自ら施主となることのなかった外二が、施主としてあらゆる試みをした。
なかでも意を尽くしたのが客間と玄関。客間は庭に面しており、枡目の広い雪見障子を立てて、開ければ庭を、閉めれば陽の移ろいを楽しめる工夫がなされている。玄関は、高齢の身に配慮して、段差は昇降に負担のかからない高さに抑え、深草土や赤杉など足触りのやわらかい材使いを施し、五官で感じる建物造りとなっている。

経年変化した錆(さ)び壁が美しい床。向かって右に、墨壺などを飾れる床脇棚を設け、シンプルな造り。
左には付書院があり、地袋を開けると掘りごたつのように足を下ろせる仕組み。

使いやすく気配りされた、こだわりの玄関。丸窓は桂離宮の松琴亭の窓を写したもの。

土間から式台、式台から上がり框(かまち)の段差は通常五寸(約十五センチ)のところを、四寸五分(約十三・五センチ)と低く設け、上り下りしやすいよう工夫している。

上がり口に設けた式台は赤杉。肌触りがやわらかいうえに、なぐりを施して滑りにくくしている。土間は深草三和土の足触りがやわらかい。

外二が説いた大工の心構え

大工は掃除から

「私方には、職人が大勢いますが、行儀見習いのためにお茶を習わせています。数寄屋の仕事をするために、お茶の作法やお茶室の約束ごとを習うということもありますが、実は大工としての態度がよくなるようにという意味からです。
掃除もまた同じ理由から、見習いから一人前の職人まで厳しくやらせています。掃除をきちんとやらせると、身の回りが美しく片付き、ものを大切にするようになり、仕事の手順もよくなって何かにつけて効果が上がります。それで掃除をやかましくいっているのです。」

大工にとり道具というものは生命より大事なものです

打×槌

たとえば釘を打つとき、上手な者は、パーン、パーンですぐに決まるのに、下手な者は何度でも打って無駄な音が多いのです。(中略)仕事場では仕事ぶりを見るまでもなく、その音で仕事の良し悪しがわかります。

彫×鑿

末長く狂いがこない仕事をするには、材料の組み方や仕口にかかっているわけですが、それは結局、鑿の使い方次第ということになります。

削×鉋

鉋をうまく使い分けて仕上げた材料の表面の色つや、手ざわりなどによって、鉋の削りの良し悪しがだんだんわかるようになり、何年も削っているうちに腕も上達していくのです。

切×鋸

材木の大きさや形や質に応じて何種類もの鋸をたくみに選び分けて使うところに、大工の腕があるのです。

(淡交社刊『中村外二数寄屋建築施工集』より)

外二が説いた大工の心構え

右の墨壺は外二の夭折した長兄の形見。左は鑿。「数をいくら持っていても、肝心なのはのは鑿の研ぎ方」と語った外二。亡きあともその鋭さ・美しさは健在。

かすかに面取りをして、木目を見せた北山丸太の柱。天然木ならではの年輪の表情が見た目にやわらぎを感じさせる。

数寄屋建築の未来

最後に、外二自身が、数寄屋の未来観を綴った文章を掲げる。執筆から三十年近く経った今も古びない、棟梁の言葉をここに———。最後に、外二自身が、数寄屋の未来観を綴った文章を掲げる。執筆から三十年近く経った今も古びない、棟梁の言葉をここに———

数寄屋建築はもちろん木造建築ですが、書院造りのように昔からの定まった寸法で形が出来るというものではありません。数寄屋は天然の材料をそのまま使用して、太いのや細いのや、曲がりくねったのやらいろいろの寸法の材木を用います。ただし産地とか種類によって真・行・草の位がありますから使い分けが必要です。あとは自由に好みを加え、趣向をこらして楽しんで造れるのが数寄屋のよいところです。
もちろん施主の考えひとつで、その人の人がらがおのずと形に現われてきます。施主の人がらがしのばれて、一生はおろか幾代ものちまで残り、しかも楽しみながら住める建物、それは数寄屋にきわまると思います。
建物を長く保つように造るのは、施工者のいちばんの心得ですが、その建物を可愛がり、ときどき修繕をし、手入れや掃除をして大切に扱うのは施主の心がけです。今日まで何百年も経た木造建築が建ち残ってきたということは、私たちの先祖の心がけが良かったということにほかなりません。
太閤さんや千利休さんらが、それぞれの好みで建てた数寄屋建築が今日まで残っていて、後世の私たちがそれらを目のあたりにすることが出来、喜んで使えるということは、先人の心がけのたまものと感謝にたえません。それと同時に、先人の人がらに思いを馳せずにはいられません。
歴史の来し方、行く末に名を残すのが数寄屋建築だとすれば、私たちは先人から受けついだものを後世に伝えていかなければなりません。そのためにはこれから先、施主も施工者もまごころを尽して、何百年の風雪に耐える数寄屋建築を建て残す心がけがあれば、数寄屋建築の将来はますます明るく広がるであろうと思います。

※掲載の内容は『茶のあるくらし なごみ』2013年9月号特集「中村外二の仕事」に掲載の情報をもとに作成しております。
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